独白劇 [反戦]
東京新聞に梅原猛さんが連載している「思うままに」、今日は「能について」の11回目。
「自然居士」が対論劇であることを考察している。
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「自然居士」においてシテとワキは、世阿弥の作った複式夢幻能のようにシテがもっぱら語り手で、ワキはそのシテの語る言葉の単なる聞き手であるという関係ではなく、言葉によって討論し勝敗を競う関係なのである。ギリシャ悲劇にしてもシェイクスピア劇にしても、西洋の劇は概ねこのようなディアレクティークすなわち討論を劇の基本としている。
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観阿弥の理想ではなかったかという「自然居士」の拠る仏教の法と、人買いの拠る世間の法のディアレクティークが、この劇なのだという記事を読みながら、劇場型政治の登場人物を思い浮かべた。
彼は決して討論をしない。
対話をしない。
あるのは、独白ばかり。
自分だけが酔っている、下手糞な一人芝居なのだ。
観客は皆辞めろと言っている。
どうして辞めないのか。
政治は討論ではないのか。
知識も経験も判断力も劣る人物が、現実から目をそむけて他人の言葉を聞こうとしない。
彼が見ているのは、憲法を「改正」した「美しい国」だけだ。
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