SSブログ

宮殿炎上 [反戦]


日中戦争開始前年の1936年から昭和天皇の海軍侍従武官を務めた故山澄貞次郎氏の手記が、今日から東京新聞のサイトで公開されている。
表紙や目次の他、本文61ページすべてが手書き文字の画像そのままである。
題して『随筆 宮殿炎上』。

 →東京新聞:昭和天皇の生活描く 海軍侍従武官の手記発見 【手記全文】

今日の朝刊にはこの手記に関する、日本政治思想史の原武史・明治学院大学教授のインタビューが掲載されている。
歴史的な文書には、解説がないと理解しにくい部分がある。

 →東京新聞:昭和天皇像に迫る 側近の手記、本紙HPで全文公開


----------------------------------------------
山澄氏はその趣旨を「国民に詫(わ)びたい」という思いを実現されたと記した。

 だが原教授は「昭和天皇はまず、皇祖皇宗に敗戦を報告し謝罪したいと思っていた」と話す。

 昭和天皇は終戦直後の45年秋、伊勢神宮を参拝した。その後の巡幸で国民に接して戦争中の生活を尋ねたり、広島では「災禍に対しては同情にたえない」と発言した。

 「確かに戦災の人々を励ましたが、詫びたいのが本心ならば、なぜ明確にうかがわせる言動をしなかったのか。多大の戦死者を出したことに対して、国民に向かって具体的に詫びたとはいえない」と指摘する。
----------------------------------------------


昭和天皇自身は、戦争責任をどう考えていたのだろうか。
本当のところはよくわからない。


「天皇自身の意識では、この生物学への思い入れは稲の生育を神に祈り、収穫に感謝する祭祀(さいし)とつながっていたのではないか」

「研究は天皇の精神を正常に保つ役割を果たしていたが、御用邸に滞在できなくなる43年以降になると、貞明皇后の情念に巻き込まれていった」

「天照大神(あまてらすおおみかみ)から代々途切れることなく継承されてきた皇位を担っている以上、自分の身体は私のものではないという意識があった」

「三種の神器に最後までこだわったのは、南朝正統論が確立されていた当時、北朝の血を受け継ぐ天皇が自らの正統性を主張するよりどころと見なしていたからだろう」


BlogPet 9条を殺すな!
幻泉館 リンク用バナー

太陽

映画『太陽』オフィシャルブック

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:ニュース

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

沖縄・慰霊の日海へゆく ブログトップ

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。