朝日のあたる家 CHRONICLES #426 [ボブ・ディラン『クロニクルズ』]
ポール・クレイトンの友人は他所から来た人たち(out-of-towners)でした。
クレイトンと同様に、みな階級から離れたところ(caste apart)にいようとするのです。
一般的な社会規範から外れ(nonconformists)ているのですが、ケルアックのように自分の活動を世間に認めさせようとするわけでもありません。
クレイトン以外にフォークの連中はいなかったようですが、ディランはこの人たちがとても好きだったそうです。
それはそうですよね、宿無しのディランを自分の部屋に泊めて好き勝手やらせてくれたレイのような人たちなんですから。
その連中の仲間ではありませんが、クレイトンはデイヴ・ヴァン・ロンクとも仲の良い友人でした。
当時、ヴァン・ロンクは最高のフォークシンガーでした。
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I was greatly influenced by Dave. Later, when I would record my first album, half the cuts on it were renditions of songs that Van Ronk did. It's not like I planned that, it just happened. Unconsciously I trusted his stuff more than I did mine.
僕はデイヴに大きな影響を受けた。後に最初のアルバムを録音することになった時、その半分はヴァン・ロンクの解釈によるものだった。そういうつもりだったのではなくてそうなってしまったのだ。知らず知らずのうちに、僕は自分の曲よりも彼の曲を信頼するようになっていたのだ。
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"No Direction Home"の中で、ヴァン・ロンクが怒ってみせていましたね。
「朝日のあたる家(House of the Rising Sun)」の短調(マイナー)によるコード進行は、ヴァン・ロンクが作ったものです。
それを先にレコードにされてしまったのです。
もう自分はそのコード進行で歌うことができなくなってしまったと。
それが1962年。
元歌は高田渡さんが「朝日楼」というタイトルで好んで歌っていたように、長調で知られていたのでしょう。
このマイナーのコード進行を元にアニマルズが「朝日のあたる家」をブリティッシュロックに仕立て上げて大ヒットさせます。
それが1964年。
東京オリンピックの年です。
これでディランも「朝日のあたる家」が歌えなくなったんだとヴァン・ロンクは大笑いしていました。
でも、その大ヒットのおかげでディランがロックに回帰するきっかけができたのだから、わからないものですね。
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